ラブラン寺の周りは、門前町になっていた。
チベットの人々が買い物をしたり、食事をしたり、お茶を飲んだりして、思い思いの時間を過ごしていた。
日本のように楽しみが少ない分、みんなが同じ物を共有して楽しんでいる感じだった。日本で言えば「ディズニーランド」みたいなのりでここに来ているのかもしれない。
寺の外でお経を上げていた。写真を撮ろうとすると右手に持っている太鼓で顔を隠してしまった。御布施をしろという事らしい。
分かったと言うとニッコリと笑ってポーズを作ってくれた。現金な坊さんだった。
寺の周りは巡礼者の回廊になっていた。五体投地をしている老婆もいた。みんな表情は晴れやかだった。
男は、どこか違う。彼の50cmくらい前にレンズがある。まるで何事も無いように、ただじっとこちらを澄んで眼で見ている。
彼の中の心は何か一本筋が通っているようなそんな気がするのは私だけだろうか?
祭りを見に来た二人。男の方は皮のジャンバーを来ていた。このあたりにも時代の流れが見受けられた。
チベット仏教といえばマニ車。男の右手に持っているもの。寺の回廊にも大きな物が据え付けられているが、
これは持ち運びのできる小型のもの。 マニ車を、回して欲しいと言うと、クルクル回してくれた。
祭りの日だというのに、 少年僧が、水汲みをしていた。まだ、空は曇天でポツポツと雨が落ちていた。
祭りに来ていた姉妹。どちらもよそ行きの服を着ていた。今はお洒落といえば洋服みたいだった。年をとった人たちは、民族衣装を着ていたが若くなるとそうでない傾向が強くなっていた。
祭りを見るのを疲れてしまったのか、巡礼をするのが疲れてしまったのか、道端で寝てしまっていた。寝るときにも数珠を離さないのが、チッベトらしい。どんな夢を見ているのだろうか?
僧侶には花が似合っている。このあたりの僧侶はなかなか写真を撮らせてくれない。
同じチベット仏教でもインドあたりだと撮れ撮れと積極的なんだが、これも地域性なのかもしれない。でも、彼は違った。
堂々とした男が寺の前に座っていた。 風格があった。日本では、こんな人になかなかお目にかかれない。日本では若者が、自信を持っているが、この地では歳を重ねた者が自信を持っている。どちらが、自然なんだろうか?
祭りに来ていた女性。照れってしまった彼女を何とか撮らせてもらった。このあたりの女性は、自分の顔の皺を気にしてなかなか撮らせてくれない。いい感じだと思ってカメラを向けるのは、やはり失礼なんだろうか?
撮らせてくれて「ありがとう」