ダライ・ラマ14世の生家を訪ねた

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緑が広がる麦畑 ダライ・ラマ自叙伝から50年以上経っているがあたりの風景は私の印象では全く同じであった。 現在、この生家にはダライラマのお父さんのお姉さんの子供(従兄弟)が住んでいた。文化大革命のとき、従兄弟の父は、 ダライラマのことが原因で自殺されたそうだ。歴史の暴力がこんな所にもあった。現在は、ダライラマの写真も飾られていた。 以前はこの家は小学校として使われていたが、今はここと離れたところに新しい小学校が出来ていた。 従兄弟はそこで校長をされていたそうだ。彼の部屋にはダライラマと並んで撮った写真が飾られていた。
チベットわが祖国』からの抜粋
私は、チベット暦では乙亥(きのとい・1935)年の第五か月の第五日に、チベットの東北部にあるタクチェルという小さな村 (現在の青海省)で生まれた。それは美しい土地であった。私たちの村は、小さな高原の上に横たわっており、そのほとんどが大麦、 小麦の豊かな畑に取り囲まれいた。高原の周囲はというと、密生した鮮やかな緑色の草に覆われた丘陵の連なりが続いていた。
私たちの家には中央に中庭があった。家は平屋で、下部は石造り、上部は泥造りであった。 平屋根の端はトルコ石色の青緑色の瓦を並べ、ふちどりしてあった。 正門は南の方、アミ・チリ山に向いていた。そして門の頂にはチベットの伝統的な風習に従い、槍や旗幟が飾られていた。 中庭の中央に建てられた、高い竿の上では、祈祷の旗幟がひるがえっていた。家の裏手には、わが家の馬、ラバ、、 牛などを入れる囲いがあった。門の前には侵入者から家を守るため大型のチベット番犬が棒杭につながれていた。

【写真:上】ダライラマの生家近くの麦畑。一面緑が広がっていた。【写真:右】ダライラマの生家。 今は従兄弟夫婦がひっそりと暮らしていた。
ダライラマの生家


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