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ブハラ:ミル・アラブのメドレッセ
この旅の始まる前の7月(1998年)にタジキスタンで
国連タジキスタン監視団(UNMOT)で
活動をしていた秋野豊さんが殺された。
このことで、私はタジキスタンにあるペンジケント遺跡には
行けなかった。(遺跡に行けなかったことは本当に些細なことであるが)
それに昨年(1999年)も キルギスタンのフェルガナ地方で日本人鉱山技師が
拉致された。(私が行ったウズベキスタンのフェルガナとは世界地図で見ると
殆ど 同じ所になってしまう)報道だけで見ると非常に危険なところに
見えるが実際はそこに住んでいる人は穏やかに暮らしていた。
旧ソ連 が崩壊して経済的には苦しい中央アジアの国々の苦悩の
一面だろうか?共産主義とイスラム原理主義の対立なのか?
民族間の争いなのか? 一人の旅人としてはついついその国の光の部分と
日本の影の部分を比較してしまうが、どんな国にも光と影の部分がある。
そんなことを 改めて認識した。

ウズベキスタンには空路でソウルから入った。
「何故、ソウルから直行便があるのだろうか?」疑問に思っていた。
1930年代満州事変のとき、スターリンが極東地区でいずれ日本と対戦すること
になると考えて、そこにいた朝鮮の人々をシベリア鉄道を使って強制的に
中央アジアに移住させた。ロシアと韓国と関係は、そんな苦渋の歴史的な事実が
あったことを知った。そのため今でもウズベキスタンには朝鮮の人々(約47万人)が
住んでおり、交流があるために航空路線が結ばれている。
朝鮮の人々の悲劇と言えば、日本への強制連行がよく知られているが、
中央アジアへもと思うと、歴史の残酷さと彼らの悲しみとが心に染みてくる。

シャフリサブス:
コン・グンバス・モスク
「サマルカンド・ブルー」という響き惹かれてこの地を旅した。
一番印象に残っているのはウズベキスタンの人々だった。
シルクロードの面影を 残す街の中に暮らす人々。
カメラを向けるとみんな優しく微笑んでくれた。
幸せにこれからも暮らしていってほしいと思わずにはいられ なかった。
そして、シルクロードの面影を残す街。サマルカンド、ブハラ、ヒワ。
日本の観光地だとそこに住んでいる人と歴史的な物と
人々は切り放さ れて存在しているが、それがかの地では渾然と混じりあっていた。
歴史の人々中に生きている。まさにそんな感じだった。
街の中心にあるモ スクの屋根は、コバルト・ブルーで天空の青よりも蒼く
土色の街に彩っていた。
人と街がやさしく共存しており、親密な時間が流れていた。
シルクロードは東西交易の十字路。浪漫いっぱいの言葉だが、裏を返せば、
人と人との葛藤の道。人と人とが出会えば、幸せになったり、悲 しくも争いになったりする。
そんなことは分かっているよと全てを包み込んでしまう優しい人々の笑顔があった。
また訪れてみたい。そんな道だった。
(この文は2000年に書いたもの)


































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