ミャンマーに再訪した。
前回(11年前)行けなくて、今回是非行ってみたかったのがゴールデンロック。この地に行くには、普通のバスでは行くことが出来ない。山の入り口で専用のトラックに乗り換えて30分、それから徒歩で45分、遙かなる聖地とは言い難い距離だが通常の観光地とは一線を画している。山上にはほとんど宿泊施設がなく、現地の人々は、広場でごろ寝をする姿が数多くが見うけられた。ここでの夜の祈りの風景は、想像以上に良かった。現地の人が一晩中岩に向かって祈りを捧げていた。数多くのロウソクと線香の明かりとライトアップされた金色の巨大な岩が、荘厳な風景を作っていた。翌日の早朝、現地の人々とともに山を下った。

もう一度、撮ってみたかったのはシュエダゴンパゴダの夕景の祈りの風景。境内にある祈りの場所から庶民の祈りは、夜の帳が下りる頃から最高潮になる。そこに一緒に座っていると黄金の塔が、あたかも仏の世界の入り口に見えてくる。毎日ここで祈りを繰り返していると、宗教観も豊潤なものになっていくと思う。

インレー湖では、あいにくと雨に見舞われ、思ったように撮影は出来なかった。これも仕方がないのだろう。たまたまインレー湖畔では尼僧の托鉢に出会った。小一時間ほど彼女達の後を付いて回った。背の小さな順に綺麗にならんで町を歩く。回る順番は決まっているのだろう一番先頭の僧が、家の前で声を出す。しばらくすると家の人が供物を持って出てくる所もあるし出てこない家もある。たくさんの僧侶の托鉢があるので、家の前で早くから待っている人もいる。私は、小雨の中少しの時間写真を撮らせて貰ってが、彼女達は今日もそして明日もこの町歩きを続けていると思うと頭が下がる。遠い私でもそう思うのだから、その場所にいる人々は、強く彼女達の生き方に共感と尊敬の念を持っているのだろう。それが、この町の雰囲気を平穏で落ち着いたものにしていた。

パガンは、11年前とは変わっていた。数多くの観光客が訪れるため、現地の人々がそれに群がって現金収入を得ようと必死になっていた。これも仕方がない部分もあるが、何か大切な物が無くなってしまったと思うのは、観光客の底の浅い考えで済ませれるのだろうか。その必死さの分、素晴らしい笑顔になかなか出会わなかった気がする。前回の時は、ヤンゴンの道端でも結構いい笑顔を返してくれたのだが、それも今回は少なかった気がした。顔施ということが言葉がある国で、少し寂しい気がした。

ミャンマーは、現在軍事政権で、国民とっては不自由な暮らしをしいられている。国際社会からは取り残された感じもあるが人々の祈りの姿を見ると、どんなに環境に苦しくても凛とした生き方が出来るものだと言うことを教えてくれる。軍事政権のため、一部の人間の感覚で、古い仏像は金箔が塗られたり、バガンの真ん中に近代的なタワーが出来たりと我々観光客から見ると首を傾げたくなることもある。バガンはタワーのために世界遺産には登録されていないとも聞く。農作業をしている人や仏像に向かって祈る人々を見ていると政治がどんなものでもあろうとも人間としての普遍的な営みを通じて人々の内面の豊かさは保たれていたような気がする。また機会が有れば、またゴールデンロックやシュエダゴンパゴダの祈りの風景を見てみたい。