イランはアジアの中でも遠い国。
地理的にも心理的にも遠い気がする。イランに関する最近のニュースといえば、サッカーのアジア予選がテヘラン行われたことと、核開発問題が思い浮かぶ位でとても少ない。またイラクの隣国なので戦争やテロの影響やアメリカとの関係でどこか危険な香りが漂ってくる。日本人にとって漠然としたイランのイメージは黒い。しかし実際はどうなのか。イランにはどんな人が住んでいるのか。どんな生活をしているのか。いろいろな疑問と不安を抱えながらあまりにも日本にくる情報が少ない中東の大国へ旅立った。厳格なイスラム教の国と言うことで旅行し辛い国なのかと心配していたが、それは杞憂に終わった。町の印象は日本の地方都市と変わらず、道行く女性がスカーフを巻いていることぐらいの違いしかなかった。

ペルセポリスが見たかった。
観光地化され大屋根が付き整備が進んでいた。写真を撮るものとしては大屋根の存在は興ざめする存在ではあるが、保存と言うことを考えれば仕方がないのだろう。アパダナのレリーフには、蓮の花を持ったペルシャ人やメディア人がたくさん彫り込まれていた。壮大な権力の下での朝貢は平和の証だとは思わないが、花や各国の特産品を手にして王の前に並ぶことは力のないものが平和に暮らすためには必要なことだったのもしれない。この20年はこのあたりは戦禍に人々は苦しんでいる。2500年前と現在の環境は全然違うが平和を維持するために必要なことは武器を持つことではないとレリーフから私は読みとった。ぺルセポリスの中にある蓮と仏教の教典に中にも出てくる東洋の蓮とは、どこかで繋がっているのだろう。シルクロードによって「蓮が平和の象徴」とする感覚が伝播したのかもしれない。

ペルシャの人々の知性を感じた。
イスファハンのイマーム広場(510m×163m)は、素晴らしかった。回廊をくぐって初めて入ったときの印象は空が広く「世界の半分」という大仰な表現が間違いでないと思った。広場の中にある池の周りを人々が朝散歩をしていたり、昼間家族連れが芝生に座って団欒の時を過ごしたり、夜になると広場の一角で少年がサッカーに興じていた。ここは人々の生活に不可欠な所だった。シンプルなデザインで長方形の回廊の中央にはモスクや宮殿がある。そして北側には庶民の生活を支える大バザールが広がっている。祈りと生活が融合した大きな生命体のような広場だった。アッバスT世が政治・経済・信仰のすべてが集約された広場を作ろうと計画し、バンノア・イスファハニーという建築家が16世紀の終わりから何十年もかかって完成させた。広場の道路を挟んで西側の一角にひっそりと彼の像が建っている。その像を見ながら時間が許す限り広場に通った。

イランの田舎はあまり人がいなかった。
アブヤーネ村。ユネスコの協力も得て家の外観は良くなっていた。人々はあまり観光客を歓迎している風ではなかった。それでも何人かの人の写真を撮ることができた。その女は、暖を求めて日当たりの良い道端に腰を下ろしていた。その横には、小さな布の袋があった。話の切っ掛けにと中身を見せて貰った。表面が傷だらけになったコカコーラのペットボトルと毒々しい色をした薬が出てきた。何処か悪いのと身振りで聞くと胸と右足に手を当てて教えてくれた。あまり効きそうにもない薬を、ペットボトルに入れた水で飲むのだろう。外観は美しくなった村だったが村人の暮らしはまだまだ豊かとは言えない現実を見た気がした。「元気でね」と呟きながらその場から立ち去った。

イランには、また行ってみたい。もっと丁寧にモスクを撮ってみたいし、今回は十分人物の写真は撮れなかったので北の町に生きる人の姿をフィルムに収めた気がしている。次の機会のときはもう少しイスラムの解放が進んで女性の写真が撮れるかもしれないと淡い期待も持っている。