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仏陀の歩いた所を、足早に巡ってきた。
道路事情は、以前に比べたら良くなっているらしいが、それでも思いのほか移動には時間が掛かった。
人々は生老病死から逃れることは出来ない。そこから人の悩みが始まりその悩みを断ち切るにはどのようにすればいいのかを仏陀は考え、体系化していった。「死は怖い」と現代人は思ってしまうが、今でもインドでは死は身近にある。ベナレスの川岸では、死者が火葬される様子を間近に見ることは出来る。ちょうど私がベナレスに着いた日の夕暮れ、三四体の死体が焼かれていた。それの場所を取り囲むように人々がその様子を眺めていた。次の日、その場所は昨日の火葬が無かった様に掃き清められいた。その側でガンジス川は、昨日も今日も何事もなかったかのように流れていた。
死の恐怖からの解脱。世の中には未来のことで絶対というものは、なかなか存在しない。その数少ない例が死ということになる。どんな人も死から逃れることは出来ない。彼は人々は前世で良い行いをすれば、来世では今よりは良くなるという輪廻転生という思想を考えた。また、死というのものは身に纏う衣のようなもので古くなれば新しいものに変える、身体は変わっても魂は不変であると説いた。仏陀の思想は、彼の理論は当時としてはかなりモダンなものであり、聞き手に知性を要求したこともあり、農村より都会で受け入れられた。仏陀の以前から土着の宗教があり修行をしている人々も数多くいたが、その人たちも帰依させた。その中でもっとも影響を受けたのは時の権力者だった。彼は国王の庇護のもと、マガタ王国ではラジキール(竹林精舎)、コーサラ国ではサラーヴァスティー(祇園精舎)を中心地して説法や修行を行い布教を活動を行い、仏教は発展していった。
仏陀の死後、マウリア朝のアショーカ王は、仏教布教の目的で西はガンダーラ地方、南はスリランカまで伝道師を派遣した。クシャーナ朝になって、ヘレニズム文化とイラン文化の影響を受けたガンダーラ美術、マツゥーラでも独自な仏像が作られ、それらの仏像が人々の仏教理解に大きく貢献した。このように発展していった仏教だが、残念ながらインドではバラモン教から変容したヒンズー教に飲み込まれてしまった。しかし、彼の教えは、南はスリランカ、タイ、ミャンマー、東は日本へと伝播して、我々日本では人々の行動の指針を決まるときにはなくてはならない重要な思想の一つになり、心の源流の一つになっている。
霧の中の村を訪ねたとき、彼が歩いた時代と変わらない、自給自足の生活している人々にであうことが出来た。彼らからすると死は身近なもので、今も生活に苦しい中で暮らしている。それはまるで動物や植物が自然の中で一生を終え、そして再び新しい生命が産まれ子供達も同じ暮らしをするという大きな循環の中にいるかのような生活だった。仏陀の教えの中に「こだわりを捨てる」というのがあるが、まさに彼らはこだわりを捨てた、「こだわり」ということも分からない生活をしてるいるかもしれない。それは仏陀の言葉にある「煩悩の矢を抜き去り、心の安らぎを得よ。」を地でいくような生活の気がした。仏陀が生まれ旅をした所で、このような人々に出会えたことは旅の収穫であり、喜びでもある。
仏教遺跡は、かなり整備が進んでいた。彼の思想の深さを今の遺跡の中から想像するのは見学時間が少なく、整然としすぎて彼の苦悩や迷いのような闇の部分を読みとることは難しい。各地の遺跡の所々にいる僧侶達の座禅をして瞑想している姿を見て、仏陀もこのようにして深く静かに思想を深めていったことを想像するしかない。ブッダガヤでは今まで見たことのない数の僧侶がいて、仏教が脈々と生きていることを実感した。またインドでは、現在カースト制度を否定する仏教が見直されつつあるという動きある。仏教の広がりと深さを再認識した旅になった。(仏陀、仏教についての記述は、浅学のため誤った記述があるかもしれません)
【写真】パータリプートラ
仏陀滅後200年のころ、アショーカ王のもとで、マウリア朝の首都パータリプトラ(華氏城)において、第三回結集(千人結集)が行われて、経・律・論蔵全部を集成した。この結集によって上座部仏教が成立し、スリランカに仏教が伝わった。写真の左にあるのはアショーカ王の石柱
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